翌朝、私はもずくの散歩に行きたがる声で目が覚めた。
「んー……もう朝かぁ……」
寝室の扉の外からは、避孕藥 扉を爪でカリカリと引っ掻く音が聞こえる。
もずくが寝室に入りたがっているのだ。
私は起き上がり、部屋の扉を開けるためにベッドから下りようとした。
そこでようやく、私の左手が甲斐の手でがっちりホールドされていることに気付く。
「……」
そうだ。
昨夜、私は甲斐と一夜を共にしてしまったのだ。
昨夜は欲望のままに抱かれることを望んでしまったけれど、今冷静になると私は最低なことをしてしまったのだと思い知る。
遥希と別れてから、ずっと寂しくて欲求不満だった。
だから私は、甲斐の優しさに甘えてしまったのだ。
甲斐もきっと同情で抱いてくれたに違いない。
甲斐を起こさないように絡まった指をほどこうとしたけれど、結局甲斐は目を覚ましてしまった。
「……おはよ、七瀬」
「お、おはよう……」
ほどきかけた指が、また絡まり繋がる。
どことなく恋人同士のような甘い空気が流れ始めたことに、私は混乱してしまった。
「甲斐、ちょっと……手、離してもらってもいい?」
「何で?」
そのとき、扉の外にいるもずくがいよいよしびれを切らしたのか、ワンッと大きく吠えた。「ほ、ほら、もずくがドア開けてって怒ってるから」
私は強引に繋がっていた甲斐の手をほどき、寝室の扉を開けた。
するともずくが猛スピードでベッドの方に突進し、私をスルーして甲斐の胸に飛び込んだ。
「うわ、もずく痛いって。何だよお前、寂しかったの?」
「クゥーン……」
「本当に可愛いな。天使じゃん」
普段なら人見知りをするもずくだけれど、甲斐には異常なくらいに懐いている。
きっとそれは、甲斐が人にも動物にも分け隔てなく優しい人だからだろう。
「そういえばお前、いつももずくの散歩って朝してるんだっけ?」
「あ、うん。週3くらいのペースで、一応今日は散歩の日なんだ。いつも家の周りを二十分くらい歩いてるの」
「ふーん。じゃあ、今日は俺も一緒に行こうかな」
「えっ」
「何だよ、ダメなの?」
甲斐はベッドに座り、甲斐に寄り添って離れないもずくを撫でながら、いつもの調子で私と言葉を交わす。
その様子は驚くほど自然体で、昨夜の出来事が本当は夢だったのではないか……なんて本気で思ってしまいそうになる。
でも、夢なんかじゃない。
まだ、身体が甲斐の熱を覚えている。「何か腹減ったな。朝飯食べてから散歩行く?」
「あ……うん、そうだね。じゃあ適当に何か作るかな」
「俺も手伝うよ」
ダメだ。
自然に接してくれるのはありがたいけれど、甲斐に甘えてしまったことはちゃんと謝らないと筋が通らない。
このまま何事もなかったように親友に戻れるかもしれない。
そんな狡い考えが頭に浮かんだけれど、すぐにかき消した。
いつも私の支えになってくれている甲斐に対して、そんな失礼なことはやっぱり出来ない。
「お前、朝はパンじゃなくてご飯派だろ。今から米を早炊きで炊けば……」
「甲斐、待って」
もずくを抱きかかえ、寝室から出ようとする甲斐を呼び止めた。
「あの、その、昨日のことなんだけど……」
「あぁ、昨日のお前は凄かったよな」
「え……」
「お前もああいう顔するんだって、驚いた」
甲斐の言う『ああいう顔』は、きっとセックスの最中のことを指しているのだろう。
昨夜の自分は、確かに思い出したくないくらい乱れてしまっていたと思う。
朝から生々しいことを指摘され、全身から一気に汗が噴き出した。
「そ、そういう話じゃなくて!あの、昨日は本当に……ごめんなさい!」
私はようやく甲斐に頭を下げた。
誠意を持って謝らなければ、私の気が済まない。「私、甲斐の優しさに甘えた。遥希と別れて、本当は寂しくて……だから、私に同情してくれた甲斐を利用したの」
今は、性欲を何よりも優先してしまったことを後悔している。
甲斐に合わせる顔がない。
甲斐はきっと、私に失望したに違いない。
「……お前さ、俺が同情でお前を抱いたと思ってんの?」
「え……だって、そうでしょ?」
甲斐が私を抱いてくれた理由なんて、それぐらいしか思い当たらない。
「もしかして昨日俺が言ったこと、全部覚えてないとか?」
「甲斐が私に言ったこと……?」
甲斐の意外と筋肉質な身体、愛されていると錯覚しそうな優しい愛撫、情熱的なキス。
覚えていることは沢山ある。
でも、甲斐が与える刺激があまりにも気持ち良すぎて、何を話したかは全く思い出せそうにない。
すると甲斐は盛大な溜め息をつき、恨めしそうに私を見た。
「いや、最初からこんな簡単にうまくいくとは思ってなかったから、別にいいんだけど」
「何の話?」
「……まぁ、今はこれでも十分か。今俺が焦ったところで、結果は目に見えてるようなもんだし」
甲斐はまるで独り言のようにブツブツと何かを呟いている。
私には、さっぱり意味がわからなかった。「甲斐……本当にごめん。やっぱり怒ってる?」
「怒ってるっていうか……お前のその想像力に驚いてる。とりあえず、飯食お。話はそれからだな」
そこでひとまず話は中断し、私たちは並んでキッチンに立った。
私が米を研いで炊飯の準備をしている間に、甲斐が朝食の卵焼きを上手に焼いていく。
「さすが甲斐、手際いいね」
「これぐらいお前も作れるだろ。子供のときからずっと家事やってきてるんだから」
「そうだけど、別に料理に自信があるとかじゃないし」
甲斐は卵焼きの他にも、わかめの味噌汁と小松菜のゴマ和えを朝から作ってくれた。
もっと冷蔵庫に食材が入っていれば何でも作れたのに、冷蔵庫の中はヨーグルトや納豆など毎日食べるものしか入っていない。
「いただきます」
「いただきます!」
三十分後、炊きたてのご飯と甲斐が作ってくれたおかずがテーブルに並ぶ。
こうやって誰かと一緒に朝食を食べる感覚は懐かしい。
遥希がこの家を出てからは一人の食事に慣れ始めていたけれど、やっぱり一人よりも二人の方が断然いい。
いつもと同じようなものを食べていても、美味しさが全く違う気がする。